めんどうくさがり会社員の生存戦略ノート

めんどうくさがりな会社員が日々の生活や趣味や社会情勢など雑多なテーマを書き残します。見た人が何かに役立てられるといいな。とにかく文章が書きたい。

母の日と卑怯さについて

 

 こんばんは。ニノマエ9541です。

 本日の労働も非常に嫌でしたが、土日の間も悩まされていた仕事の課題が解決に向かい、少し安堵しました。まだ完全に安心することはできませんが、一旦私の手から離れたので戻ってくるまでは一休みです。

 

 本日は、題の通り、母の日と卑怯さについて書き残したいと思います。「母の日」と「卑怯さ」、という風に並べるとなかなか違和感のある言葉達です。しかし、意外と考えてみれば単純な話を書いていきます。

 

 昨日は母の日でしたが、たまたまこの記事に辿りついたあなたはお母様に何かしら日頃の感謝を実践的に表現しましたか?私は実家暮らしですが、何もしませんでした。「明日(つまり本日)から労働が始まる」という現実に打ちひしがれていて、母への感謝を実践する心になりませんでした。酷い子です。母も私が労働を心から嫌っていることは理解してくれているのが幸いでしたが、結果、「母の日なのに何もしなくてごめん。いつもありがとう。本当に感謝している。」と夜に言葉で伝え、母もそれを喜んで受け止めてくれるというやりとりに落ち着きました。

 上記のやり取りの中で、直接母親にも言葉で伝えたのですが、私は実に卑怯な人間だと思います。何が卑怯かと言えば、日頃の感謝を示すのに「ありがとう」の言葉だけで済ませた点です。そう、重要なのは「日頃」です。「日頃」とはつまり、日常の積み重ねです。365日、母親に母親の役割を背負わせておいて、たった1日,たった一言「ありがとう」と伝えて清算しようとするこの行為が卑怯で無くて何と言うべきか。今回はそういう話を書き残したいと思います。 まずは、母親たちが「日頃」こなしている「母親」という役割について考えます。その後、その役割に対する「母の日」という記念日型の感謝の表明が卑怯であると私が思う理由を記します。

 さて、「母親の役割」といっても家庭によって厳密には異なる点は少しややこしいですね。我が家の場合、ゆるやかな性別役割分業制が実践されており、「献立考案から含めて晩御飯を作る」「夜の時間管理を考えて夕方のうちに風呂に入る」「家全体に掃除機やクイックルワイパーをかける」といった、家事の中でも重たい作業や地味に頭を使わなければならない作業は全て母親が担当しています。食器洗いや休日の洗濯・昼食といったウェイトの軽い作業は、父・姉・私達が分担しています。(姉はあまり家事をしませんが。)私の母が我が家で従事しているような比較的重たいアンペイドワークを「母親の役割」と規定すること自体がジェンダー論的にはいけすかない仕草ですが、ともあれ現実の我が家の肌感覚では「これらはお母さんの役割」と漠然と定義されています。おそらく、家事の分担意識が広まった現代日本においても、このようなゆるやかな性別役割分業体制を採用している家庭が多いのではないか、というのはデータに基づかない私の主観です。

 さて、このような「家事の非合理な分担」から解放されている母親がいたとして、そのような母親もまた自らが好む好まざるに、「子を持つ者」または「子を産んだ者」あるいは「子を育てている(育てた)者」という「属性としての母親」から逃れることは絶対にできないのではないでしょうか。一度子を育て始めれば「母親」になり、一度「母親」という役割・属性が付加されたその人が「母親」から解放されることは不可能でしょう。子が独立しようが,死んでしまおうが,罪を犯そうが、その人自身もその人の周囲や世間も、その人を「母親」と規定するのが実態と認識しています。

 なぜ以上のように「母親の役割」について、「アンペイドワーク」と「逃れられない属性」という二つの観点から長々と語ったかと言えば、両者に共通して、「母親」は常日頃24時間365日の間「母親」であり続けていると言えることを示したかったからです。家庭内での立ち回りであれ、それ以前の属性の話であれ、母親は24時間365日母親であり続けているわけです。これをたった1日,たった一言「ありがとう」と言って労いを済ませた私のなんと卑怯なことか。このように話を繋げたかったのです。

 更に、話を延焼させます。上記の流れから考えてみると、そもそも「母の日」という行事そのものが、なかなか卑怯なものに思えませんか。365日母親であり続けている人々を、たった1日労ってチャラにしようとするなど、実に卑怯な発想の行事です。私と違って、「今日は母の日だから母さんは1日好きに過ごしていてね。」などと言って昨日家事や料理を母にさせずに残りのメンバーでやりきることで感謝を実践した子供や父親がいるかと思いますが、では、それで残りの364日は家事の責任を母親に任せていることと釣り合いが取れていると言えるでしょうか。私は、そうは言えないと思います。(なお、何もしなかった私より何かした彼ら彼女らは何万倍も立派で素晴らしい人間です。)もっと話を延焼させてしまうと、「父の日」も「勤労感謝の日」も同様と思えます。「父親」も「勤労従事者」も全て、日頃からその役割を全うしているわけです。にも関わらず、たった1日記念日を設定してその日だけ感謝を示し、残り364日を清算しようとする。「母の日」「父の日」といった記念日型の感謝表明行事は、単純な時間的な釣り合いで見ただけでもごまかしもいい所です。「日頃の行い」に対する感謝表明は「日頃から示す」べきでしょう。それが最低限の釣り合いというものであり、たった1日の感謝表明は残り364日のやりがい搾取を隠す欺瞞です。もちろん、感謝される側の「母親」や「父親」はたった1日の感謝表明でも喜んでくれるかもしれませんが、そこに甘えて日頃の感謝表明を怠るようでは、ただの一過性のご機嫌取りに過ぎません。

 長々と書きましたが、結論は至ってシンプルです。それは「感謝は日頃から示しましょう」ということです。「感謝を日頃から示す」ことについて、私の頭の中にある論理的正当性を「母の日って卑怯だな」という感覚をスタートに文章化してみたかったのがこの記事となります。(参考文献もデータも無いのに”論理的”などと言ってはいけないのですが・・・)以上を踏まえ、ひとまず明日の晩御飯は献立考案から食器片づけまで自分が担当しようかなと思います。2週間に1回くらいのペースで実践していますが、もっと実践しなければ母親の「日頃」の責務には到底追いつけません。たまたまここまで読んでしまったあなたも、「日頃の感謝は日頃から示す」をぜひ実践しましょう。そして、次の「母の日」や「父の日」や「勤労感謝の日」には、普段の感謝表明行動より更に立派な感謝表明行動をできるよう、お互い励みましょう。

 

 感情のままに書きなぐった2700字のこの乱文。これがレポートならどんなにヌルい講義でも単位はおりませんね。では、また。


〈5/12 追記〉

   在宅残業のために晩御飯づくりへの参加が叶わず。無念です。代わりに片付けは全てやりますが、晩御飯の片付けは上記の通り、ウェイトの軽い家事ですから、この展開には忸怩たるものがあります。母に甘え、母を搾取する自らの仕草からなんとか卒業したいものですが、そこに至るにはまだ遠いですね…。しかし諦めません。では、残業に戻ります。