めんどうくさがり会社員の生存戦略ノート

めんどうくさがりな会社員が日々の生活や趣味や社会情勢など雑多なテーマを書き残します。見た人が何かに役立てられるといいな。とにかく文章が書きたい。

テンカツ!はじめました(転職活動)

 

 お久しぶりです。ニノマエ9541です。

 あっという間に4日坊主となってしまい、お恥ずかしい限りです。

 この2週間弱の近況を報告します。

 

 とは言っても、タイトルの通りです。転職活動を始めました。今年後半の引っ越しを考慮に入れて、7月いっぱいを一区切りとして転職を目指します。ここでだめだったら来年年明け以降くらいに延期でしょうか。その時にまた考えます。といっても、そもそも応募もまだしていないのですが…。

 今はまだ、エージェントともやりとりしつつ、自己分析と職務経歴書を整理している段階です。さて、職務経歴書のために自分のこの2年余りの短いキャリアを棚卸すると、なんと自らの経験や技術の空虚なこと!書けることがあまりにも無く、本当に転職できるのか甚だ不安ではありますが、何事も挑戦・実践あるのみですかね。とにかく書いてみて添削してもらい、その中で面接も見据えた自分の強みを整理して…と進められるよう頑張りたいと思います。

 なんとか転職の軸というか、転職によって得たい環境・仕事は見えてきましたが、いかんせん根本的に労働が嫌いであるため、転職できるのか全く自信が無いのがつらい所です。しかし、自分の置かれた状況を打破するために、動かせる範囲で手と頭を動かす今の状況がそれなりに好きなのは救いですね。これまで、現職と労働に対する漠然としつつも重たい拒否感にじわじわ自我が削られていた日々に比べると、とにかく行動している今は少しだけ気持ちに張り合いを感じます。自分のことを基本的に内勤マインドだと思っていましたが、自分の手の届かない範囲で起きる事象に翻弄され続ける日々を経て実際に転職に向けて動いてみた今を思うと、自分の行動である程度直接的に状況を好転させられる可能性を秘めた仕事の方が性に合っているのかもしれないと思ってみたり。まだまだわかりませんけどね。

 

 以上の様な感じで、本も読み進められなければ、ブログも書けないという散々な状態ですが、転職に向けてやれることは進めていこうという日々を過ごしています。短い記事で恐縮ですが、今回はこんなところで。職務経歴書を引き続き仕上げていきます。

 

では、また。

完璧主義が怠惰に負けて返しそびれている本を読む


こんばんは。ニノマエ9541です。
労働をして家事に参加してブログ記事を書いて、となるとなかなか他の余暇を過ごすのが難しいですね。家にいる時間の使い方が改善しそうでありがたいですが、慣れるまではちょっとしんどくなりそうだなということを改めて実感しています。
本日はスマホから投稿してみているので、字数や見え方が前の3記事と比べて違和感あるかもしれませんが、通して見る人はしばらくいないだろうし大丈夫ですかね。

題の通り、今読んでいる本と、これを読むに至った経緯(と懺悔)について書き残そうと思います。
今読んでいる本は『紗央里ちゃんの家』(矢部 崇)です。私は本も読まなければ小説も滅多に読まないのですが、これは陰鬱なストーリーのわりになかなか読みやすく、スラスラ読めて助かります。まだ全体の1/5程度しか読めていませんが、こういう湿り気と狂気がじっとりと漂っている物語も良いですね。全て読み終えたら感想記事も別途挙げたいと思います。
さて、なぜ普段本を読まない私がこのような鬱々とした物語を読んでいるのかという話です。それは、この本が借り物だからです。しかも1年半以上借りています。つまり「早く返したい。」のです。
もちろん、早く返したいなら「ちょっと読んでみたけど口に合わなかったから返すね。ありがとう。」と1週間くらいで持ち主に返せばよかったのですが、残念ながら私は確かに「本は読まない」ものの「本が嫌いではない」ことから内容に興味が湧いた上に、「読まないで返すのは申し訳ない。」という余計な罪悪感が邪魔をしてすぐに返すことはせず、かと言って「実際に読むのはめんどくさい」という怠惰によって読むこともなく、とうとうここまで引きずってしまったわけであります。こうして文章に残すとクズ極まりますね…。
また、ここで更にクズ要素を追記してしまうと、この本の持ち主というのが今交際している女性なんです。彼女は幸い私をずいぶんと好いていてくれるし、この本を私に貸したことも忘れていそうな気配があるのですが、それがなおのこと私の罪悪感を「ちゃんと読んでから返さなければあまりにも申し訳ない、だからまだ返すわけにはいかない」と掻き立てるのです。しかし、掻き立てられた罪悪感が「本を読むのはめんどくさい」という怠惰に敗北してしまう日々が現在進行形で続き、今に至っています。マジで私はクズですね…。正直、彼女は忘れたふりをしてくれているだけで私が謝るのを待っているとも思います。

以上の理由から、本の中身への興味と、何よりも「ちゃんと読みきって返して謝りたい。」という動機から、数年ぶりの読書に勤しんでいるのでした。(また、読むことで彼女の興味や考え方を別の角度から知りたい、という思いも少しあるのでした。)彼女にこの本を返却する時には土下座と口頭での謝罪と謝罪文と共に感想レポートを提出しようと思います。
ということで、短いですが今日はここで記事を終えて読書に戻ります。偶然この記事に辿り着いたあなたも、借りたものは借り続けていると返すタイミングや返すためのあるべき礼儀を見失って罪悪感の沼に沈むことになりますので、くれぐれも気をつけて。(私ほどのクズが、偶然このブログのこの記事に辿り着く確率というのも大概ですが。)

では、また!

母の日と卑怯さについて

 

 こんばんは。ニノマエ9541です。

 本日の労働も非常に嫌でしたが、土日の間も悩まされていた仕事の課題が解決に向かい、少し安堵しました。まだ完全に安心することはできませんが、一旦私の手から離れたので戻ってくるまでは一休みです。

 

 本日は、題の通り、母の日と卑怯さについて書き残したいと思います。「母の日」と「卑怯さ」、という風に並べるとなかなか違和感のある言葉達です。しかし、意外と考えてみれば単純な話を書いていきます。

 

 昨日は母の日でしたが、たまたまこの記事に辿りついたあなたはお母様に何かしら日頃の感謝を実践的に表現しましたか?私は実家暮らしですが、何もしませんでした。「明日(つまり本日)から労働が始まる」という現実に打ちひしがれていて、母への感謝を実践する心になりませんでした。酷い子です。母も私が労働を心から嫌っていることは理解してくれているのが幸いでしたが、結果、「母の日なのに何もしなくてごめん。いつもありがとう。本当に感謝している。」と夜に言葉で伝え、母もそれを喜んで受け止めてくれるというやりとりに落ち着きました。

 上記のやり取りの中で、直接母親にも言葉で伝えたのですが、私は実に卑怯な人間だと思います。何が卑怯かと言えば、日頃の感謝を示すのに「ありがとう」の言葉だけで済ませた点です。そう、重要なのは「日頃」です。「日頃」とはつまり、日常の積み重ねです。365日、母親に母親の役割を背負わせておいて、たった1日,たった一言「ありがとう」と伝えて清算しようとするこの行為が卑怯で無くて何と言うべきか。今回はそういう話を書き残したいと思います。 まずは、母親たちが「日頃」こなしている「母親」という役割について考えます。その後、その役割に対する「母の日」という記念日型の感謝の表明が卑怯であると私が思う理由を記します。

 さて、「母親の役割」といっても家庭によって厳密には異なる点は少しややこしいですね。我が家の場合、ゆるやかな性別役割分業制が実践されており、「献立考案から含めて晩御飯を作る」「夜の時間管理を考えて夕方のうちに風呂に入る」「家全体に掃除機やクイックルワイパーをかける」といった、家事の中でも重たい作業や地味に頭を使わなければならない作業は全て母親が担当しています。食器洗いや休日の洗濯・昼食といったウェイトの軽い作業は、父・姉・私達が分担しています。(姉はあまり家事をしませんが。)私の母が我が家で従事しているような比較的重たいアンペイドワークを「母親の役割」と規定すること自体がジェンダー論的にはいけすかない仕草ですが、ともあれ現実の我が家の肌感覚では「これらはお母さんの役割」と漠然と定義されています。おそらく、家事の分担意識が広まった現代日本においても、このようなゆるやかな性別役割分業体制を採用している家庭が多いのではないか、というのはデータに基づかない私の主観です。

 さて、このような「家事の非合理な分担」から解放されている母親がいたとして、そのような母親もまた自らが好む好まざるに、「子を持つ者」または「子を産んだ者」あるいは「子を育てている(育てた)者」という「属性としての母親」から逃れることは絶対にできないのではないでしょうか。一度子を育て始めれば「母親」になり、一度「母親」という役割・属性が付加されたその人が「母親」から解放されることは不可能でしょう。子が独立しようが,死んでしまおうが,罪を犯そうが、その人自身もその人の周囲や世間も、その人を「母親」と規定するのが実態と認識しています。

 なぜ以上のように「母親の役割」について、「アンペイドワーク」と「逃れられない属性」という二つの観点から長々と語ったかと言えば、両者に共通して、「母親」は常日頃24時間365日の間「母親」であり続けていると言えることを示したかったからです。家庭内での立ち回りであれ、それ以前の属性の話であれ、母親は24時間365日母親であり続けているわけです。これをたった1日,たった一言「ありがとう」と言って労いを済ませた私のなんと卑怯なことか。このように話を繋げたかったのです。

 更に、話を延焼させます。上記の流れから考えてみると、そもそも「母の日」という行事そのものが、なかなか卑怯なものに思えませんか。365日母親であり続けている人々を、たった1日労ってチャラにしようとするなど、実に卑怯な発想の行事です。私と違って、「今日は母の日だから母さんは1日好きに過ごしていてね。」などと言って昨日家事や料理を母にさせずに残りのメンバーでやりきることで感謝を実践した子供や父親がいるかと思いますが、では、それで残りの364日は家事の責任を母親に任せていることと釣り合いが取れていると言えるでしょうか。私は、そうは言えないと思います。(なお、何もしなかった私より何かした彼ら彼女らは何万倍も立派で素晴らしい人間です。)もっと話を延焼させてしまうと、「父の日」も「勤労感謝の日」も同様と思えます。「父親」も「勤労従事者」も全て、日頃からその役割を全うしているわけです。にも関わらず、たった1日記念日を設定してその日だけ感謝を示し、残り364日を清算しようとする。「母の日」「父の日」といった記念日型の感謝表明行事は、単純な時間的な釣り合いで見ただけでもごまかしもいい所です。「日頃の行い」に対する感謝表明は「日頃から示す」べきでしょう。それが最低限の釣り合いというものであり、たった1日の感謝表明は残り364日のやりがい搾取を隠す欺瞞です。もちろん、感謝される側の「母親」や「父親」はたった1日の感謝表明でも喜んでくれるかもしれませんが、そこに甘えて日頃の感謝表明を怠るようでは、ただの一過性のご機嫌取りに過ぎません。

 長々と書きましたが、結論は至ってシンプルです。それは「感謝は日頃から示しましょう」ということです。「感謝を日頃から示す」ことについて、私の頭の中にある論理的正当性を「母の日って卑怯だな」という感覚をスタートに文章化してみたかったのがこの記事となります。(参考文献もデータも無いのに”論理的”などと言ってはいけないのですが・・・)以上を踏まえ、ひとまず明日の晩御飯は献立考案から食器片づけまで自分が担当しようかなと思います。2週間に1回くらいのペースで実践していますが、もっと実践しなければ母親の「日頃」の責務には到底追いつけません。たまたまここまで読んでしまったあなたも、「日頃の感謝は日頃から示す」をぜひ実践しましょう。そして、次の「母の日」や「父の日」や「勤労感謝の日」には、普段の感謝表明行動より更に立派な感謝表明行動をできるよう、お互い励みましょう。

 

 感情のままに書きなぐった2700字のこの乱文。これがレポートならどんなにヌルい講義でも単位はおりませんね。では、また。


〈5/12 追記〉

   在宅残業のために晩御飯づくりへの参加が叶わず。無念です。代わりに片付けは全てやりますが、晩御飯の片付けは上記の通り、ウェイトの軽い家事ですから、この展開には忸怩たるものがあります。母に甘え、母を搾取する自らの仕草からなんとか卒業したいものですが、そこに至るにはまだ遠いですね…。しかし諦めません。では、残業に戻ります。


 

私について

 

 こんにちは。ニノマエ9541です。

 この記事では、私がどういう人間か,このブログに何を書き残したいのかを記していきたいと思います。具体的には以下の内容です。

 

1.名前

2.年代

3.職業

4.趣味

5.このブログに今後書き残したいこと

 

1.名前

 ニノマエ9541と名乗っています。名前に使われる言葉として好きな言葉と、なんとなく好きな数字を繋げただけのものです。

 

2.年代

 20代です。他に語ることはありませんね。

 

3.職業

 会社員(正社員)です。職種は営業でも無くノルマも無いホワイトな労働環境で、私は実に恵まれています。が、今の会社を続ける気がほとんど失せてしまいました。客観的に見ればこんなに天国な職場は無いと思う要素は多々ありますし、特別酷い目に遭っているわけでもないのですが、様々な理由からどうしてもこの会社に居続けたくないという想いが日に日に強まってしまい、職業人生迷走への道をひた走ろうとしている所です。

 このコロナ禍においてなかなか転職活動は難しいため、また、他にも控えている作業(引っ越し)があるため、今年中の転職はできないだろうと見込んでいます。が、情報収集と自己分析は怠らずに進めていきたいですね。このブログも自己分析の一環として活用できればと目論む次第。

 

4.趣味

 アニメ、ゲーム、映画(邦・洋)、散歩、家電、家具といったところでしょうか。それぞれどういうジャンルが好きであるか少し書き残します。

 アニメは話題作+自分のカンに従った作品を見る傾向があります。シーズンを無視して継続して好きな作品は、ガンダム宇宙世紀・アナザー問わず)や宇宙戦艦ヤマト、響けユーフォニアムジョジョなどでしょうか。一通りその時代毎の話題作はある程度見ているし、今も好きですね。(とは言っても、AngelBeatsやCLANNADリトバスなど、見ていないものもあるのですが…)

 ゲームはあまり手広くは無いです。ドラゴンクエストアイドルマスターモンスターハンター等が好きですね。プレイしていない作品や期間も多いものの、ずっと興味を失わずに情報は確認しています。最近は、モンハンのアイスボーンに落ち着いています。武器は太刀>ガンランス>弓の順ですね。モンハンは3rd以来(!)ですが、楽しいです。アイマスは765,ミリオンですが、ミリシタはすっかり放置気味です。スマホゲーはどうしても続かないんですよね。今年2020年開催予定の765のライブで自分のアイマス愛を発散しようと考えていましたが、このご時世では無理なのでしょうかね…

 映画は、邦・洋を問わず見ますが、こちらも沢山見ているわけではないです。ゴジラは小学生の頃から熱を失わずに追い続けられるくらい好きですね。スターウォーズも好きで、ep8には否定的だけどep9を礼賛するわけでもない(納得はした)くらいの立場です。ホラーやアクションにパニックものも好きですが、ゴジラ以外で一番好きな映画作品は「遠い空の向こうに」ですね。このような「シンプルにいい話」は好きです。「英国王のスピーチ」や「フィールドオブドリームス」も好きです。

 他には、通販サイトで家具や家電について調べて比較するのも好きです。衝動買いはしませんが、商品を吟味して購入し、自分の買った製品がいかに素晴らしいか誰かに説明するのは好きです。今年は引っ越しを考えているので、ベッド・デスク・モニター等について調べるのがいよいよ楽しいですね。話が少し逸れてしまいますが、不動産サイトで物件の間取り図を眺めるのも引っ越し関係なしに好きです。

 いろいろと書き殴ったものの、特にアニメ・漫画・ゲームについては、最新作を追いかけることがすっかり少なくなり、「かつてオタクだったが今はオタクとも呼べない空っぽの何者か」と化す過程にあるのが私です。勿論「趣味だから追いかけ続けてコミットしなければならない」といった思想は忌避すべきですが、私個人の感情として「趣味なのにコミットできていない自分」にはやはり納得できないものがあります。前の記事にも書きましたが、これを放置すると自分の好きだったものや情熱をも忘れて自我が薄れてしまうような危機感を憶えます。このブログの記事の題材探しという意味も含め、趣味はある程度しっかり追いかけたいですね。

 

5.このブログに今後書き残したいこと

 私の人生のほとんど全てを書き残していきたいですね。趣味について語る記事も書きたいですし、買ってみた家具や家電のレビューの様な記事も書いてみたいです。自分の転職活動についても書くつもりですし、今年実行予定の引っ越しについても書きたいです。また、自分の意見の整理も兼ねて、時事問題への考えや時事に関わらない社会全体の在り方に対する意見表明もしたいです。勿論、個人を特定できる話を書くつもりはありませんけれど。

 私と同じような、「普通の人生」を目指しつつも「普通」の難しさにくじけそうなorくじけている人達にとって、参考資料になるようなブログにできたらと思うばかりです。私が私という人生をどのようにもがいているか、その記録を残せればと思います。

 

 色々長々と書いてしまいましたが、まずは更新を続けることですね。いよいよ明日は平日、いよいよ明日から労働のリスタート。テレワークと並行しても記事を書けるよう頑張りたいと思います。更新に慣れてきたら、他の人のブログの様な見やすいレイアウトの記事も書いてみたいですが、それはまだ先の話ですね。では、また。

 

このブログを作った目的

 

 はじめまして。ニノマエ9541と申します。

 

 文章を書く癖を付けたいと思い、ブログを始めます。

 自己紹介などは、また別に記事を立てようと思います。

 

 この記事ではひとまず、このブログを作った目的について書き残したいと思います。このブログを作った目的は、「文章を書く習慣を付けるため」です。

 大学を卒業して少し経ちましたが、すっかり文章を書くことが減りました。勿論、会社仕事の中でメールや報告書など文章を書く機会はありますが、自分の趣味思考や社会思想を一定の形式に整えて文章化する機会というのは殆ど無くなってしまいました。

 私は自分の思考を整理して誰かに伝えることは好きです。(私に限らず、そういう人は世に多いでしょう。このようなブログサービスやSNSの興隆を見るにそう思います。)大学時代も、ヒーヒー言いながらもレポートを書くのはなかなか好きでした。家族や親しい人に自分の趣味や思想について話すことも好きです。

 しかし、好きだというのに、そういった伝達行為・発信行為のための作文は今や殆どしていません。上で述べたように親しい人との会話ではそういった行為もしていますが、会話はどうしても勢いづいたものになりますから、推敲・整理といった作文ならではの知的活動からは離れてしまいます。Twitterは動かしていますが、整理した思考を発信する(あるいは「発散する」)にはやはり窮屈ですし、数百字,数千字やそれ以上の字数の纏まった文章を書いている時に比べればあまり頭脳を働かせていない感覚が致します。また、自分の思想を整理して「発散する」機会の無いままに会社仕事にばかり思考を費やしていると、自分が何に感動して何に怒る人間であったか,何を是として何を否とする人間であったか,要は自我を忘れていくような感覚が日に日に募ります。

 これらの感覚に付き纏われる現状に危機感を覚えたことによって、「文章を書くのが好き」という感覚を取り戻したい、もっと纏まった字数の文章を書く習慣が欲しい、という願望が芽生え、話が本項の冒頭に繋がるわけです。平たく言えば「馬鹿になるのを防ぎたかった」というところです。

 さて、文章を書く習慣を作りたくなった理由というのは殆ど只今述べた通りではありますが、実を言うとそれだけではないという余談も書き残します。私はそう遠くない未来に今勤めている会社を辞めて転職することを考えています。その時に、転職候補に雇われライターを加えたいというちょっとした野望があるのです。しがない第2新卒の未経験ライターを雇うような状態で経営が安定した会社があるとは中々考え難いですが、そういうことはもっと後から心配することでしょう。こういう選択肢を取るための訓練を実行するくらいなら罰は当たらないはずです。

 以上、転職を見据えたちょっとした訓練と、そして何より上述の「文章を書かなくなった自分」に対する危機感から、文章を書く習慣作りを目論んでこのブログの開設に至ったという話でした。何をするにも面倒で、あらゆる労働からの逃避願望を持ち、「生産性」の3字を蛇蝎の如く嫌う私の様な人間が、市民1人1人の労働生産を前提とするこの社会で如何に自我を保持して生き抜くかという戦略。この”生存戦略”の実にささやかな第1歩が、このブログの開設なのです。

 

以上、宜しくお願い致します。

 昨今のご時世ですから、くれぐれもお体に気を付けて。

では、また。